■2846 / ResNo.2) |
カマキリ各種電波本
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□投稿者/ 鴨瀬 一般人(5回)-(2008/07/25(Fri) 01:23:58)
| 2008/07/26(Sat) 23:47:40 編集(投稿者)
とりとめも無い博物館とカマキリの関係に関する記述
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・カマキリ再興 古くからカマキリはakiharu国のシンボル的存在であったが、 その文化性が再び見直されたきっかけはakiharu国遊園地のカマキリ戦車TOMであった。 このTOMは地下洞窟を再調査した際に見つかったモザイク画が原型となっている。 これ以外にも多数の文献・石碑・障壁画・美術品が見つかっており、カマキリの優れた文化性が確認された。 これを機に、各地で私的に発掘されている(略奪とも言う)カマキリの遺物を国が買い上げ博物館を作り、 カマキリの独特な文化を広く他国へ広めていこうという藩王の命が下ったのである。
・そもそもカマキリはどこからきたのか? 古くからこの国に伝わるおとぎ話の中に、唐突に竜と猿が出てくる。 この竜がカマキリに相当し、猿は竪穴に封印されしものから派生するオーガと考えられる。 猿=オーガはともかく、なぜ竜=カマキリなのか。 ここでおとぎ話を引用させていただく。”夏になると竜が暴れ出す” 夏になると暴れだす、というのはもちろんカマキリの暴走である。 akiharu国民なら皆ご存知の通り、夏はカマキリの繁殖期に当り暴走が激しくなる事で有名である。 さらにおとぎ話から引用する”竜の怒りが届かないように、皆が天に住まえばよいのではないかと” 天、というのは即ち食糧増産命令の際見つかった古代の塔である。 この暴走を恐れて、古代akiharu人は古代の塔に逃げ込んだと考えられる。 ここで再びおとぎ話から引用する”眷属を使わして天に住まう人々を下から襲わせた”とある。 なぜ、わざわざ下からと書かれているのか? これはakiharu国に存在する巨大な地下洞窟から出てくる為、わざわざ下からと書かれているのである。 そして、その地下洞窟からは多数のカマキリ画が発見されている。 つまり、カマキリたちは地下洞窟にて生活していたと考えられるのである。 以上から、竜=カマキリ説がご理解頂けると思う。 さらなる調査にて地下洞窟にて古代地下カマキリ超帝国が築かれており、カマキリを統べるカマキリの王が存在したという証拠が断片的に出ている。 その後の展開をおとぎ話になぞらえると、カマキリの暴走が収まり、古代akiharu人は再び地上に戻った。 (この際、暴走を収めたのは絶技”頬を引っ張る”であると伝えられているが記録には残されていない) が、再びカマキリが暴走し、”立派な宮殿は一夜にして滅ん”だとされる。この宮殿が古代遺跡であると推測できる。
しかし、このカマキリ達がどこからやってきたのかはいまだ持って謎である。
「akiharu国人の遺伝子は、ある一時期を境に大きく変化しています。 どこかから全く異なる人種がやってきたとしか思えない」
との証言からもカマキリ達が唐突に他所からやってきたとは考えられるのだが……
・kamakiri美術からakiharu美術への発展 地下洞窟から見つかる古代カマキリ帝國の遺物の中でも特に略奪される事が多かったのは、美術品の類である。 カマキリ達は器用さには乏しかった。代わってその筋力を持って驚くべき作品を作り上げていた。 一例を挙げると、地下洞窟からは数多くのモザイク画が見つかる。 一見すると分らないがこの一枚一枚のモザイクはすべて色石を刀で断って形を揃えてあるのである。 さらに、カマキリ達は彫刻を愛好していた様であり、家具・食器などすべて刀で切り出されている。 こういった家具や食器に付けられている模様なども全て刀で彫られているのである。 中でも広く愛好されていたのが像であり、親指大の石像や木像が数多く見られる。 こういった像はカマキリ達の鞘に結ばれているのが基本である。 一種のファッションであったらしく、中には数十個の像が結ばれている鞘も発見された。
これらの美術品は最も略奪される事が多く、他国へも流出する事が多かった。 しかし、博物館建造を機にこれらの美術品は国に正統な値段で買い上げられ国外への流出が禁じられた。 代わって博物館にてこれらの美術品を復元・模造し、これをakiharu国の特産品として博物館で売るようになった。 その為に博物館では美術復元調査部が作られた。これは一般に無料で公開され、数多くの国民がここで美術品の復元や模造の方法を勉強した。 始めの内は発掘品の模造だけだったのが、次第に民間での模倣品も増え(美術復元調査部出身者が多かったらしい) さらには自己流のデザインを組み合わせて、観光地や遊園地などでみやげ物として売られ、中には首都の一等地に店を構えるものまで現れた。 (akiharu国の有名ブランド店であるCamakin Klein・Kammagamo・Kamas Vuitton等が上げられる。) この人気を受けさらに美術復元調査部志望者が増え、「美術復元調査部は隠れ職業訓練所だな(笑)」などと言われる有様であった。 ともあれ、こういった美術品の製造が増える事によりますますakiharu国の美術は他国に知られるようになり、一大産業にまで発展する事になるのである。
・kamakiri文学の発展とそれに伴う娯楽映画の発達 博物館建造に伴い、カマキリ遺物が多数買い上げられた。 その価値は学術的評価を基準に決められたのでそれまで見向きもされなかった物があっという間に高値になることもあった。 その代表例がカマキリ達が書いた本や石碑である。 今までは一部のビブリオマニアの間で取引されなかったカマキリ達の文献がいまなら金になるというのである。 猫も杓子もそのへんの遺跡に転がっているカマキリ文献を持ち出しては博物館に届け出た。 一方博物館側はこの膨大な量の文献の調査に頭を抱え、ひとつの結論に達した。 「餅は餅屋だ。好きな奴らにやらせよう」 こうして国内からビブリオマニア達を一同に集めた館長は、 「ここにある全部の本を読んでくれ、好きなだけ!ただし感想文付で。」 と言った。 かくて読書家と言うよりかは乱読家の社交場となった文献調査部がここに誕生した。 が、博物館の古文書は残念ながら持ち出し禁止である。 この状況を打破せんとビブリオマニア達は手分けをして勝手に古文書の写本を作り出し、家に持ち帰った。 しかし、大量の紙があっという間に消えていくのを不審に思った館長に現場を取り押さえられ、もはやこれまでかと思われたその時、 「これ面白いね。一般向けに売ってみようか」 儲け話の大好きな館長であった。 ではあるが、どの本がどれ位売れるかもわからずに無闇に印刷しても仕方が無い。 そこで博物館の特別展示室を利用し、カマキリ本展示即売会が開催された。 これをカマキリマーケット(俗称カマケ)という。 そしてその中でも売れ筋のカマキリ本は増刷し、首都や観光地などで売り出す運びとなった。 その内既存のカマキリ本では飽き足らず、独自の創作小説・コミック・情報・評論・哲学、はたまたカマキリ本を元にした映画が 博物館内の大スクリーンで上映されるなど多岐にわたるジャンルがカマケで扱われ、中には国内で爆発的に大ヒットするものあった。 博物館はakiharu国の総合的な文化交流の中心地となったのである。
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